むにゃむにゃなムニャムニャ

作品になる前のむにゃむにゃした絵と、考えになる前のむにゃむにゃした言葉を、むにゃむにゃとかきとめておく。
上のカエルは、らっぱを吹いているところ。食べているのではないですよ。


2011 / 2012 / むにゃむにゃしおえる
レストランを舞台にした映画が好きだ。例えば、ローラン・ベネギ監督の『パリのレストラン』。テレビでやっていたのを何となくビデオに録画しておいたのだけど、渋くてどちらかというと地味なこの作品をもう何回も繰り返し観ている。

この前も、何か映画でも観るか、と思ってレンタルビデオ屋に行ったのだけど、手に取っては「これは今日の気分とは違うんだよなあ」と感じて、なかなか選べなかった。そうしたら『リストランテの夜』(スタンレー・トゥッチ監督)という作品にすっと目がいった。あらすじに目を通してから、これだ、と思った。終わり方には感心しなかったけど、切なくて、くすくす笑える、なかなかいい映画だった。

でもどうして自分はレストランの映画が好きなのだろうか。一つにはぼくが群像劇が好きだ、ということがあるかもしれない。レストランには料理を作る人、料理を運ぶ人、ワインを注ぐ人、食べる人、お客さんと様々な人が出てくる。その一人ひとりが欠かすことができない上に、一人ひとりが脇役だ。シェフが主人公だとしても、シェフがシェフになるのはお客さんが彼の料理をおいしそうにほおばったときなのだし、お客さんの誰か一人が主人公だとしたら他の映画になってしまうだろう(ジャック・ニコルソン演じる『恋愛小説家』のように)。お客さんはお客さんで、それぞれ自分の人生を生きている人がたくさんいるのがいいのだ。

それに何といっても料理。おいしそうな料理をみんなでワイン片手にガツガツ平らげていくのは爽快だ。食べる、ということは人間が生きていくことの根源に関わっているけど(高山なおみさんの文章のすごみはここから来るものだと思う)、その一方で、おいしい料理を食べると会話が弾む。食べるという生の根源的活動と、出会いと会話を楽しむという文化的で精神的な活動。この二つが無理なく一体になっている場面を見ることができるのは最高に贅沢だ。
ディネーセンの『バベットの晩餐会』はいい小説だけど、料理と酒と会話を楽しむ客人達の描写では映画版にかなわないと思う。

そんなことを考えていたら、カスレとプリンを作って、晩餐会のようなことをしたいなあ、という気分になってきた。そういえば今年はインドカレーを作る一年にしよう、と決めたのに、まだ一度も作っていない。いやはや。
2012/2/22
昨日、誤って自分の眼鏡をふんずけた。慌てて手に取ってみたら、特に歪んでいるところもなかったので、普通にその眼鏡をかけて過ごしていたのだけど、夜になったら目がショボショボしはじめて、それでも寝る前に本を読んでいたら、ついに頭が痛くなった。そういうわけで、絵を描くときに使う度が弱い方の眼鏡を今日はかけているのだけど、目の前のものがぼんやりとしか見えない。

そういえば、前に行ったライブで、呼んでくれた人の知り合いの人が弾き語りをしていた。「私はもっぱら歌うのが専門で、演奏は下手なんですが、今夜は演奏もしちゃいます」といって、ピアノを弾き始めた。ピアノの演奏は、本人がいうとおり、本当に上手ではなかったのだけど、それを聴いているときになかなか興味深いことが起こった。

というのも、その人は流暢に歌いながら、たどたどしく弾くのだけど、そうすると、下手な演奏の中から、美しいメロディーが必死に出てこようとしているような印象を受けた。きれいな音楽が音のトンネルから出てこようとするのだけど、出口の穴が歪んでいるので、うまく出てこられない、というような感じ。

とすると、ぼく達が音楽に耳を傾けているときに聴いているのは、音自体ではなくて、それを通して伝わってくる「何か」ということかもしれない。オクタビオ・パスが「最もすばらしい詩とは、透明な詩だ」と書いていたけど、透明ではあっても、それを透かして向こうを見ていることには違いない。

ぼんやりした演奏のおかげで、こっちに来ようとしている音楽の気配に近付けたので、今のこのぼんやりとした眺めにも何か得るものがあるといいのだけど。
2012/1/23
映画が好きな友達と話していて、そういえば前にホセ・ルイス・ゲリン監督の『シルヴィアのいる街で』がいい、と他の友達がいっていたなあ、ということを思い出した。そこでその友達に聞いてみたところ「あの映画はいい」ということだったので、DVD を借りてきて観ることにした。

ガールズ・ウォッチングをしている主人公の男(ちょっとうっとうしい)がシルヴィアの後をつけて歩いていく。そうやって二人はいろいろな路地を通っていくのだけど、日陰にひっそりとある壁の一つ一つに、ちゃんと小さな窓がついている。ということはそこにも住んでいる人がいるんだなあ。

二人は何かしらの人ともすれ違う。一人ひとりが自分の用があって歩いている。こんなわけのわからない路地が、自分の生活の日常の一部になっている人が当たり前のようにいる、ということが面白い。何かちょっと特別なことをやっている気になっているうっとうしい男を横目に、全然特別じゃない時間が当たり前のように流れている。

ところで、この作品がいいと教えてくれた友人は「この作品は詩を撮っている」といっていた。どういうことだろう、と気にしながら観ていたのだけど、うっとうしい主人公とシルヴィアが大きな通りを歩いているシーンを観ていて、あっ! と思う瞬間があった。二人は割とせわしなく歩いているのだけど、カメラはそれをのんびり追いかけていく。詩はのんびりを好むということだろうか。例えば、そのときは遅刻しそうになって焦っていたとしても、その時間をのんびり思い出すときにはポエジーが訪ねてくるかもしれない、ということかな。うーん、とりあえず、この前買ってきたプアール茶をもう一杯飲んでこよっと。
2012/1/17


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